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メメント モリ ラテン語で「死を想え」 若かったころ、スペイン語を勉強したことがありました。 スペイン語学校の先生が、40代くらいの男の日本人の先生でしたが、 「40を過ぎると遠雷のように、もうお前は死ぬのだ。お前の人生は終わるのだ。 という声が、はるかかなたから聞こえて来るのですよ」という話をされたことがありました。 ちなみにスペイン語圏には、かような日本の諸行無常観と似たような哲学があるのです。 当時20歳ちょい過ぎの私は「なあにをかっこつけて、大げさな」と、思いましたが、いざ自分がその年に達してみると、確かに遠雷のように聞こえて来るのです。「死」のささやきが。 たいしてすてきでもない我が人生でも、離れるのは辛く、悲しく、恐ろしいものです。 10数年前、駒ヶ根美術館にアールヌーヴォー展が来て、見に行きました。 駒ヶ根美術館には藤原新也氏の常設展があって、かの写真を見たのです。 「人間は犬に食べられるほどに自由だ」 とコメントのつけられた、男性の死体が野犬に食べられる写真。 残酷とか怖いとか言われがちなこの写真に、釘付けになって、ミュシャの美人なんて、みな木っ端みじんに吹き飛んでしまいました。 そしてあったかい涙が流れました。ほっぺたにも心の中にも。 何故だかとても幸福な気持ちになったことを覚えています。 http://www.fujiwarashinya.com/memento_mori/memento.html 藤原氏のサイトです。 それは中学生だったか、高校生のとき、宇宙の中の原子の総量は変わらなくて、原子は転々といろいろな物質に変化して行く。というようなことを習ったときと同じ衝撃でした。(このことが正しいのかどうかは別として....) たまたま、今ここに居る私は、私であって私でなし。宇宙中のあらゆる何かと誰かと共有しあっている。そう想像すると、世界中はとても近しく、あたたかなものに感じられるのです。 インドのどこかで行き倒れた誰かは犬に食べられ、その犬もいつかは死んでまた誰かに食べられ、延々と続いて行く連鎖はなんだかとても愛らしいような感じさえして、胸に迫って来たのでした。 私はmixiに「今日の死体」というコーナーめいた物をつくってあります。 今日は我が家の猫がとってきたネズミの画像、そして車に轢かれてたリスの話... 当地では、たくさんの生き物の「死」に遭遇します。 冬場は少ないものの、暖かくなってきて生命活動が盛んになってくれば、それに比例してたくさん死ぬのです。畑をすればたくさんの虫を殺さなければならないし。 道ばたに転がってだんだんと変わってゆくタヌキやキツネの死骸。 鹿やイノシシの死骸はまた、私たちの食物であったりもする。 なんだろう、都市では実感することのできなかった世の中の原理とでもいうものです。 都会の生活の中では、道ばたの動物の死骸は速攻で片付けられ、死にそうな人やペットは病院に隔離されてしまって、「死」は医師や葬儀社の手にゆだねられてしまい、隠蔽されてしまう様な気がするのです。だから隠蔽された「死」がひっそりと牙をむいて皆を怖がらせる... 死ぬことが、暖かく、懐かしいことであってくれたら、生きることも、もうちょっと楽になるような気がするのです。 写真ないとさみしいので、昨日の作品、りんごのクラフティーとりんごとさくらんぼのクラフティー。おいしかったあ。 食べ物って、みんなもとは生き物だったんだ、っていうことにいつも感動する。
by decolleter
| 2010-01-28 03:02
| リトル クリーチャーズ
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